朝の出勤時間。
電車が駅に停車する直前に車掌さんが『今日もお気をつけていってらっしゃいませ』とアナウンスしてくれることが時々ある。
今朝の千代田線でもその声を聞いた。
混み合う車内を降りるときそれを聞くと、少しだけ、ホッとする。
そしてその『いってらっしゃい』の言葉で、思い出す人がいる。
8年前、カナダ行きの飛行機に乗ったのは5月9日、母の誕生日だった。
母と一緒に福岡国際空港に到着した私は、初めての国際空港に圧倒されて萎縮していた。
そこはまるで巨大な迷路で、たくさんの人が忙しそうに往来している。
私が手にした格安チケットは福岡から台北へ行き、そこから乗り換えてバンクーバーに到着するのは17時間後。
目的地までは更に国内線に乗り換えて3時間。乗り継ぎ時間をあわせるとほぼ24時間の移動だった。
荷物を詰め込んで岩のように重たくなったスーツケースを引きずりながらオロオロとする私を見る母の眼差しには『ちょっとほんとに大丈夫?』という疑問が隠しようもなくあわられている。
私は緊張に顔をひきつらせながらチェックインカウンターを探した。
だけど空港が広くて、目的のカウンターが見つからない。
焦りながら見渡す私の目にとまったのは、ワイシャツ姿でキビキビと働く、スタッフらしき男性だった。
とにかくカウンターの場所を聞こうと近づき、声をかけた。
――あの、すみません
私を振り返ったその男性を見て、私は少し動揺してしまった。
彼の右目と左目は、それぞれ違う方向を向いていた。
――どうされましたか?
その男性は、30代前半だったろうか。彼は私の幼稚で不器用な反応を全く意に介さず、暖かく丁寧に聞き返してくれた。
落ち着いた物腰から、“この人なら安心して聞ける”オーラがバシバシ出ていた。
男性は私と母に、カウンターの所在をとても丁寧に教えてくれた。
大人の男性から大人の対応をしてもらえたことに妙に緊張しながら、私はギクシャクとお礼を言った。
重たいスーツケースをノロノロと方向転換させた私に、彼はちょっと向き直った。そして、
――お気をつけて、いってらっしゃい
と言った。
思わぬところでかけられた暖かい言葉が、ドン、と心に響いた。
それから、「そうだ私は旅立つんだ」という高揚感が、ドン、と押し寄せてきた。
彼にいってきますと言葉を返した私は、旅立つ人特有の紅潮した表情を取り戻していたんじゃないかと思う。
最後に微笑んでくれた彼の眼差しが、とても優しかった。
私のパスポートはまっさらの新品で、腹巻の中にはバイトで貯めた全財産の数十万円が隠されていた。
なんとかなるさという気楽さよりも、なんとかしなければいけないんだという強迫観念が強い旅立ちだった。
もしかしたらそれは彼にとってなんてことない言葉だったのかもしれないけど、その言葉はスーツケースを握る手に改めて力をくれた。
今でも、たとえ挨拶程度であったとしても『いってらっしゃい』の言葉をもらうととても嬉しい。
あの時の自分の気持ちがチラリとよみがえる。
言外に帰りを待っていますと伝えているその言葉は、とても寛容で優しい存在だと私は思う。
学校に出る私を見送るために、母は家事を中断させて毎日欠かさず『いってらっしゃい』と言ってくれていた。
それが私と母にとってどれほど大切なことだったなのか、今では理解できる。
1年後にカナダから同じ空港に戻ってきた私は、見つかるわけないとわかっていながら、それでも彼をしばらく探した。
――ただいま戻りました。あなたのおかげで元気に旅立てました。
そんなことを、言いたかった。
あの時もらった「いってらっしゃい」の言葉の返事を、渡したかった。
旅立つ人がいて、その帰りを待つ人がいる。
「ただいま」と「おかえりなさい」の言葉をお互いにあたためながら、「いってきます」と「いってらっしゃい」の言葉は交わされる。
それは旅立つときだけじゃなくて、まいにち、まいにちのこと。
世界の毎日は優しさの積み重ねでできている。
これはまんざら大げさじゃない。