ワーキングホリデー

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『ただいま』 と 『おかえりなさい』をあたためながら

朝の出勤時間。
電車が駅に停車する直前に車掌さんが『今日もお気をつけていってらっしゃいませ』とアナウンスしてくれることが時々ある。
今朝の千代田線でもその声を聞いた。
混み合う車内を降りるときそれを聞くと、少しだけ、ホッとする。
そしてその『いってらっしゃい』の言葉で、思い出す人がいる。

8年前、カナダ行きの飛行機に乗ったのは5月9日、母の誕生日だった。
母と一緒に福岡国際空港に到着した私は、初めての国際空港に圧倒されて萎縮していた。
そこはまるで巨大な迷路で、たくさんの人が忙しそうに往来している。

私が手にした格安チケットは福岡から台北へ行き、そこから乗り換えてバンクーバーに到着するのは17時間後。
目的地までは更に国内線に乗り換えて3時間。乗り継ぎ時間をあわせるとほぼ24時間の移動だった。

荷物を詰め込んで岩のように重たくなったスーツケースを引きずりながらオロオロとする私を見る母の眼差しには『ちょっとほんとに大丈夫?』という疑問が隠しようもなくあわられている。
私は緊張に顔をひきつらせながらチェックインカウンターを探した。
だけど空港が広くて、目的のカウンターが見つからない。

焦りながら見渡す私の目にとまったのは、ワイシャツ姿でキビキビと働く、スタッフらしき男性だった。
とにかくカウンターの場所を聞こうと近づき、声をかけた。

  ――あの、すみません

私を振り返ったその男性を見て、私は少し動揺してしまった。
彼の右目と左目は、それぞれ違う方向を向いていた。

  ――どうされましたか?

その男性は、30代前半だったろうか。彼は私の幼稚で不器用な反応を全く意に介さず、暖かく丁寧に聞き返してくれた。
落ち着いた物腰から、“この人なら安心して聞ける”オーラがバシバシ出ていた。
男性は私と母に、カウンターの所在をとても丁寧に教えてくれた。
大人の男性から大人の対応をしてもらえたことに妙に緊張しながら、私はギクシャクとお礼を言った。
重たいスーツケースをノロノロと方向転換させた私に、彼はちょっと向き直った。そして、

 ――お気をつけて、いってらっしゃい

と言った。
思わぬところでかけられた暖かい言葉が、ドン、と心に響いた。
それから、「そうだ私は旅立つんだ」という高揚感が、ドン、と押し寄せてきた。
彼にいってきますと言葉を返した私は、旅立つ人特有の紅潮した表情を取り戻していたんじゃないかと思う。
最後に微笑んでくれた彼の眼差しが、とても優しかった。

私のパスポートはまっさらの新品で、腹巻の中にはバイトで貯めた全財産の数十万円が隠されていた。
なんとかなるさという気楽さよりも、なんとかしなければいけないんだという強迫観念が強い旅立ちだった。
もしかしたらそれは彼にとってなんてことない言葉だったのかもしれないけど、その言葉はスーツケースを握る手に改めて力をくれた。

今でも、たとえ挨拶程度であったとしても『いってらっしゃい』の言葉をもらうととても嬉しい。
あの時の自分の気持ちがチラリとよみがえる。
言外に帰りを待っていますと伝えているその言葉は、とても寛容で優しい存在だと私は思う。
学校に出る私を見送るために、母は家事を中断させて毎日欠かさず『いってらっしゃい』と言ってくれていた。
それが私と母にとってどれほど大切なことだったなのか、今では理解できる。

1年後にカナダから同じ空港に戻ってきた私は、見つかるわけないとわかっていながら、それでも彼をしばらく探した。
――ただいま戻りました。あなたのおかげで元気に旅立てました。
そんなことを、言いたかった。
あの時もらった「いってらっしゃい」の言葉の返事を、渡したかった。

旅立つ人がいて、その帰りを待つ人がいる。
「ただいま」と「おかえりなさい」の言葉をお互いにあたためながら、「いってきます」と「いってらっしゃい」の言葉は交わされる。
それは旅立つときだけじゃなくて、まいにち、まいにちのこと。

世界の毎日は優しさの積み重ねでできている。
これはまんざら大げさじゃない。

食中毒との戦い ~だって、食べたいんだもん!~

私は胃腸が弱い。そのせいか、人に比べて食中毒にかかる率が、高い。
食い意地がはっていることが災いして、なんでも食べてしまう。結果的に食中毒になってしまって苦しむことになる。

不思議なもので、食中毒になると何が原因かすぐに思い当たる。ピンとくる。あ、これはさっき食べた○○が悪かったな、という具合に。
インドでは、朝食に出されたプーリーという揚げものが原因だった。
タイでは、屋台のパイナップルだった。
憎らしいことに、そういう時に食べた物ほど美味しかったりする。

特にタイで食べたパイナップルは忘れられない。
焦げるような夏の日、歩き疲れた体を涼やかな木陰で休めようとまどろんだ。
木漏れ日に目を覚ますと、ちょうど目の前をのんびり通り過ぎるパイナップルの屋台。
そこで喉の渇きを癒そうと、果汁したたる自然の恵みを求めるのは人間として、いや生き物としての当然の選択だったのだ。

ほぼ何も考えずに私は一切れのパイナップルを買った。
青空の下でかぶりついた、黄金色の果実の美味しさよ!ああ私はこの瞬間のためにタイ王国を訪れたのだ!

……一転、地獄となったのだけど。
翌日私はホテルのベッドで嘔吐と下痢と、全身の痛みで悶絶することになった。
病院で、果物を切った包丁に菌がついていることがあると教えられた。地元の人は免疫ができているが、日本人のアナタにはダメだったんだね。若い青年医師が点滴をしてくれた。


食中毒によって引き起こされる症状は様々だと思うけど、私の場合は全身の痛みが特にひどい。
血液によって全身に運ばれた毒素に、全身の細胞が苦しめられていることがよくわかる。
悪寒と発熱、全身を絞られるような痛みに起き上がることもできない。


記念すべき食中毒初体験は、インドだった。
発症したのは、ニューデリーからアグラに移動する車の中。
「タージ・マハルを見に行こう!」という素敵な計画は出発してわずか30分で、地獄のドライブになった。

同じ朝食をとった友人はケロリとしているのに、なぜか私は瀕死状態。
私と彼女の一体何が違うというのか。
ちなみに朝食はインド式で、スパイスのきいた野菜炒めやサラダ、それにプーリーという薄い揚げパンのようなものがついていた。
私の野生の勘では、原因はそのプーリーだった。

視界がかすむほどに全身が痛く、胃袋ごと口から出てきそうなほど強烈な嘔吐感。
すでに車は都市部を離れて田舎道を走っている。田舎道といっても、もはや山間部。
「吐き続けるしかないね」と、インド人の友人が冷静に宣告する。
病院はどこ?とすがりつく私に「病院に行くにしても、とにかくこのままアグラに行くしかない」とドライバー。
私の悲鳴は風の中に消えていく。ここはインド。輪廻転生という思想が10億人を支える国。ナマステ。

季節は春で、車窓には、まぶしいほど真っ黄色の菜の花畑が広がっていた。
牧歌的な景色をガタゴト走る車。
その揺れにあわせて、壊れた扇風機みたいなうなり声を出す私。
「手も足も出ません」という表情で私を見る友人たち。
私の叫びで車は何度も停車し、同僚がボトルの水にライムを絞って私に飲ませてくれた。
飲んでは吐き、吐いては飲む。とにかく毒を出すしか方法がない。
好奇心の強いインド人達が私を見逃すはずもなく、車から降りるたびに私は人だかりに囲まれた。
ゾンビのように車から這い出て、水をぐびぐびと飲んで、下を向いて準備する。
友人のインド人が「ダイジョブ?」と近づいた瞬間に、私の胃液は盛大にインドの大地へ還っていった。
一斉にズザザと後ずさる、野次馬と同僚。
ぼんやりと車を振り返ると、開け放した車の中から友人たちの姿がかすんで見えた。
きっと彼らの中では、菜の花畑を背景にした惨めな私の姿が思い出に残っているだろう。
結局アグラに着くまで5回吐いた。

食中毒になって毎回感じるのは、猛烈な孤独感だ。
海外だから特にそうなのか、弱った体がそうさせるのか、寂しくて寂しくて仕方がない。
体の苦しみとその孤独感で、心が折れそうになる。

『衛生的な国なら食中毒にならないよ』と思う人もいるかもしれない。
だけどそれは関係ない。どこの国でも食中毒はある。自慢じゃないけど、私なんか日本でも食中毒になったことがある(本当に自慢にならない)。

用心しすぎてもつまらないが、不用心すぎても困りものだ。
残念なことに、健康と安全を守る確実な法則はない。
自分で自分を守るしかないというのが、冷たく聞こえるが本当のところだろう。
とにかく用心が第一の心構えしかない。
衛生面が疑われる食品は、口にしないこと。
暗い道は歩かないこと。バッグは車道側に持たないこと。
知らない人についていかないこと!

(だけど、あのパイナップルは本当に美味しかった……)

その国は、"No thank you" から始まった

 会話を英語で成立できるようになって以降、海外への興味はますます強くなった。次の機会にはあそこに行きたい、ここに行きたい、あれを知りたい体験したい……未知の世界への好奇心は尽きない。 
 ただ、どんなに強い好奇心を持っていても興味や関心が向かないモノというのが必ずあった。
私の友人に、“言語”そのものに強い興味があって多言語を勉強しているんだけど「フランス語だけはNo thank you」だという人がいる。
「なんだか興味が沸かないのよね」とは彼女の弁だ。
私の場合、それはインドという国だった。興味ゼロ。っていうか行きたくない。とすら思っていた。だって暑いのダメだし、胃腸弱いし、なんか大変そうだし。。

 だけど人生の半分は皮肉で構成されるらしくて、拒否しているものにこそ縁が生まれる。
いやむしろ拒否していること自体が、私の場合はすでに縁だったのではなかったか。
 そう考え始めたのは、先の友人がフランス人男性と付き合うことになってフランス語を勉強し始め、私がインドの会社に入社することになった時だった。

“外国人付き秘書募集”と書かれた求人に応募した。
ドキドキしながら行ってみると、インドの会社だった。スパイスの香りがするオフィスで面接を受けると、その場でハイ、採用……思わぬ流れに導かれ、私はインドに本社を置くIT企業の東京支社、代表取締役付き秘書として就職することになった。
そしてご丁寧にニューデリー本社にもデスクを置いてくれたのだ。
上司はヒンディー語、英語、日本語が完璧のトライリンガル。怪しいビジネス英語しか話せない私としては、なんだかちょっと肩身が狭い。

インドの多くの人が英語、ヒンディー語、そして出身地によっては地方ごとの言語を話す。
驚くことにインドの公認言語はヒンディーの他に17もあり、方言に至っては22,000にものぼる。
産まれながらにして多言語の環境のためか、高い言語能力が育まれ異例の早さで外国語を習得していく。
私が勤めていた会社でも、入社した頃には片言だった日本語をあっという間に上達させていくインド人の社員をたくさん見た。
私がきちんとした会話をするべくビジネス英語を勉強しはじめたのがこの頃。
なんちゃって英語でその場を切り抜け続けていた私も、さすがにこのハイレベルの言語環境の中では自分が情けなくてお尻に火がついたのだ。

人生の中にインドの“イ”の字も計算に入れていなかった私の日々は、あっという間にインド色に染まった。
ベジタリアンの上司のために近隣のインド料理店を調べ上げ、「一人で食事する習慣はない」と堂々と言ってのける上司のために同席してインド・ランチを食べる。
インドの人は、「一人で外食するのは恥ずかしくてできない」と言って嫌がるのだ。
手で食べる作法も教えてもらい、連日のマサラ・ランチのおかげで私の爪先は常にスパイス色に染まっていた。
インドの人は右手だけでナンをちぎって、日本で言うところの“おかず”をすくって食べる。見惚れるほど器用だ。ナンをスプーンのように窪ませてすくい取るのがコツらしい。“不浄の手”だとされる左手を使うのは「よほど熱いナンをちぎるときぐらい」という。
(だからといって慣れない私たちが左手を使うことになんの異議も唱えない)

ちなみに、インドの食事はカレーばかりではない。
スパイスをふんだんに使った食事が多いことは確かだが、いわゆるカレーではなくて、煮込み料理だったり野菜炒めだったりする。それを見た日本人が見た目と香りで『カレーっぽい』と思いこんでいるにすぎない。

まずは食べ物からインドに触れた私が、いよいよ現地に入ったときのことは忘れられない。
たくさんの大きな瞳に見つめられながら空港からタクシーに乗った。車線に関係なく走り回る車や自転車に仰天し、「この町の交通ルールはどうなってるの!?」と運転手に聞くと、「As you wish!!」と答える。黙って座席にしがみつくしかなかった。
落ち着いて見渡すと、町にはマリーゴールドの花がいたるところに飾られて、まるで夕陽に染まったかのようにオレンジ色が溢れている。
聞くと、冠婚葬祭に使用する花として大切に栽培されているという。
タクシーが止まるたびに、マリーゴールドの花輪を手にした子供たちが窓をバンバンと叩いて買ってくれ買ってくれと大騒ぎする。その喧噪と鮮やかな花の色に目を丸くしていたら、同僚が花輪をひとつ買ってくれた。
その後、食中毒から始まって山奥の寺院への参拝、マハラジャの結婚式、南端の孤島への出張……と私のインドな日々は続いた。
惜しいのは、当時23歳だった私がその訪れた土地や場所の名前をほとんど覚えていないこと。無我夢中であったとはいえ、少しでも日記なり旅行記なりをつけていればなぁと少し後悔している。
だけど今でもマリーゴールドの柔らかな花弁の感触は頬に残っているし、山奥で参拝した寺院の荘厳さは忘れられない。
多くの人々に出会い、助けられた。同僚やその家族含め、みな優しかった。
人々の鷹揚さに助けられ、おおざっぱな面に辟易し、旺盛な好奇心に共感を覚えた。

カルチャーショックもたくさんあったけど、より感じたのは世代間での価値観の違いだった。
親の世代がNGということでも、20代や30代はOKだったりすることもある。若い人たちと話す中で、「うちの親はわからず屋」というような発言も時々聞いた。
女性と男性がはっきりと線引きされていることへの違和感も、だんだん強まっているようだった。伝統や風習を重んじる中でも、新しい感覚は確実に育っている。そんな風に感じた。

最後にインドを訪れてから、もう10年にもなる。着々と姿を変えるあの国は、次に行くときどんな国になっているんだろう。


 インドを訪れた人は、二極に分かれるという。“絶対にまた来る”というインド中毒反応と、“二度と行きたくない”という拒絶反応。
私は絶対に後者だと思っていた。だって暑いのダメだし、胃腸弱いし、なんか大変そうだし……
だけど、気づくと「一度はインドに行ってごらんなさいよ」と知人に勧める自分がいる。好き嫌いの判断は別にして、暑いけど、いろいろ大変だけど……一度は飛び込んでごらんなさい、と。
中毒の芽が、いつのまにか私の中にも芽生えたらしい。

もしもあなたが『人生でこれだけはNo Thank you』と思うものを持っているとしたら覚えておくといいかもしれない。
No thank youは縁の始まり。きっと意外な形で、あなたの人生と結ばれることになる。

そしてそうやって知っていく世界が、何よりも面白かったりするのだ。

自分であることを意識して……

先日、ハリウッドで活躍する台湾出身の映画監督にインタビューする機会があった。
その時のこと。監督が、通訳スタッフの一人に言った。
――あなたは、日本語と英語を同じトーンで話すんですね。とてもいい。
母国語である日本語を話すときは大人しく控えめに会話する人が、英語を話すとなると突然アグレッシブで少し高圧的な態度になる。二重人格のような人がよくいますよね、と肩をすくめながら監督は言う。
加えて監督は、日本人女性にそういう人が多いんですよねぇ…と。
この話を聞きながら、その場にいた日本人スタッフ全員が視線を交わし、苦笑した。ははぁあなたも同じような経験をしてきたのネ、と空気でお互い理解しあった瞬間だった。
日本語と英語で声のトーンも、人格すらも変わってしまう……この経験は多くの人が経験している。なぜなら監督の言うこの『二重人格』とは、英語を話すという緊張から生まれるものだから。
私も長い間英語を話すときには、大いなる緊張(と、自分をカッコよく見せたいという幼い虚栄心)でリキみすぎて、空回りした。まるで自分ではない別人が会話をしているようで、後で自己嫌悪に陥ることも多かった。

海外に出た時は、慣れない語学で頭に血がのぼるだけでなく、会話の心構えから改革を迫られることが緊張を助長する。
日本語と英語の文化的違いを説明するのに、『I』という単語の使用頻度はわかりやすい。日本語で言う『私』。そもそも主語を割愛して会話することの多い日本語では主語である『私』が必然的に登場しなくなるということだし、文化として長い間、自分を押し出すことを良しとしてこなかった。しかし英語の中で最も使用頻度の高い単語こそが、『I』。主義主張をはっきり伝えようとする文化が、言語にも顕著に表れている。
島国によく見られる“遠慮の文化”と、大陸の“主張の文化”の狭間で、私たち日本人はまず大きく揺れるのではないだろうか。相手に譲るつもりで発した言葉は、はっきりしない人だという印象を与え、相手を慮って微笑むその笑顔は、意思を隠す東洋の秘儀アルカイック・スマイルとなって相手を困惑させてしまう。
やがて私たちは悟る。
――このままではいけない。もっとはっきり、きっぱり伝えなければならない。

ただ、難しいのは。
 あまりにも“主張の文化”に馴染もうとするあまり、今度は肩にちからが入りすぎてしまうということだ。新たな言葉を使うこと自体緊張を強いられるのに、その上さらに『自分の主張をハッキリ!』という課題がトッピングされる。単語を見つけるのに忙しい会話の中で、さらに気持ちを強く持ち、がんがん前に出て主張する!そんなこと無理…ああだけどやらないと!
この時点ですでに緊張でガチガチになるのは、もうしょうがない。
 

 英会話を学び始めた人が、少しでも緊張をしずめて自分らしく会話するにはどうすればいいのか。
もちろん英語に慣れることだけど……もしかしたら少しの気持ちの持ちようで変われるかもしれない。

ある時、数人の友人が集まっての食事の際。アメリカの友人が私に言った。
 ――あなたの英語、日本語アクセントがあって素敵よね
へっ?と思わず聞き返した。だってだって、私はあなたみたいなネイティブ発音になりたくて毎日RとLとThの発音練習してるのに、あなたはその日本語アクセントが素敵だっていうの?ムキになって問いただす私に、友人はアクセントがある英語は「個性的だし、セクシーだ」と言ってのけた。
その場にいた日本人全員が、目から鱗。
 ネイティブに近づくことばかり考えていた私たちは、日本人の発音が素敵なものだ、なんて思ったこともなかった。素敵どころか、むしろ消してしまおうとしていたのに……うれしいやら戸惑うやら。
とりあえずその日は、イギリス英語ほどではないけど、日本の発音もけっこうイケてるんじゃないのか実は?という浮かれた結論に至り、全員ビールで乾杯した。
個人的見地が多いに入った意見であることは否めないけど、この日の会話が大きな救いとなって、私の緊張はだいぶほぐれた。
コンプレックスのひとつだった発音が、自分の“個性”だと思えたおかげで、私は緊張から少しだけ解放されたのだ。発音を気にせずに、少しだけ落ち着いて話せるようになると“自分の言葉”できちんと話せているという感覚が生まれた。英語の中でも自分自身でいられるようになり始めた瞬間だった。
単純なもので、そうなってくると新しい単語も口から出てきてくれる。相手の言葉をきちんと聞くことができる。落ち着くことで自分のパフォーマンスがいかに向上するかを、私は体験した。

『英語を話しているときも、日本語で話しているように話す』と心がけること。すぐに実践するのは難しいだろう。だけどこの心構えを常に持つことが大切だ。自分自身であることを意識するのは、今後どんな場面でも必ず役に立つ。
英語を話すときに登場する“別の人格”に苦しんでいる人、もしくは苦しむだろうという予感がある人には、ちょっとおすすめ。

学校の外で学んだこと

私は英会話の基礎を、学校以外の場所で学んだ。
文法などは学校で学んだところが大きいが、基本的かつ重要な単語(haveやgetなど)が日常会話でどう使われるのかを体験して学んだのは、あるタイ料理のレストランだった。

カナダで最初に過ごした地はアルバータ州のレスブリッジという小さな町。ステイ先は、遠い親戚の叔父さんと叔母さん。
それまで全く知らなかったが、第二次世界大戦前に移民した親戚がいるという。そしてその会ったこともないこの夫妻が、私のホームステイを快く引き受けてくれた。
英語に不慣れな私が異国での生活をスタートする時、彼らの日本語と心遣いには大いに救われた。

通った学校は地元のカレッジ(日本で言う短期大学)に付属している語学学校で、アジア、コロンビア、スウェーデン、アフリカなどから生徒が集まっていた。熱心な先生が多い、素晴らしい学校だった。
語学学校での勉強は刺激的で、中学の頃から学校で繰り返し勉強していた文法がここにきてようやく理解できる喜びがあった。
私は恐ろしいほどに英文法を知らずに留学していた。「shouldの後の動詞は原形でいいの?」と聞いて友人を仰天させたことがある。
中学で勉強した文法なんて、使う機会がなければ22歳で真っ白けなのだ。
自分の将来がかかっている留学だから必死だった。少しずつ単語、例文、文法を覚えた。
ライティングの宿題はいつもクラスで一番長いエッセイを提出した。それなのに……
  ――話せない。聞き取れない。
3か月たってもちょっとした会話すらできない。ノートに書きつけて記憶した単語が会話として使えない。
多くの初心者が通る関門に、私は当然足止めされた。そこを通過するための学校であり、留学だ。それなのに私は泣きたいほどに焦っていた。
ダメだダメだ、このままじゃダメなんだよ。
たかだか3か月で何を言うかと、今なら鼻で笑い飛ばす。
だけど1年間しか滞在できないビザが私の頭上でカチコチと時を刻み続け、お金も制限されている極貧の留学だった。悠長に構えている余裕は全くない。
日本語で話す学校の友人達に苛立ちを感じ始め、あれだけ助けられていたはずの叔父夫婦の日本語までもが私の行く手を阻んでいるような気がした。
 ――なんとかしなくちゃダメだ
精神的に追い詰められた私は、結局夏休みを機にその学校をやめてしまった。
自分をさらに追い詰めるために、強制的に英語漬けになること。英語で生きていかざるを得ない環境にいくこと。
 
 心配そうな叔父夫妻に見送られ、私は長距離バスとフェリーを乗り継いでバンクーバー島のビクトリアという町へ移動した。
知り合いはいないし、土地に関する知識もない。
偶然見かけたビクトリアの『花が咲き乱れた穏やかな港町』というイメージ写真で「なんとなく優しい人がたくさんいそう」という、根拠ゼロの恐ろしく幼い願望だけを胸に、スーツケースを引きずりながら2日間かけて移動した。
 辿りついてみればビクトリアという町は確かに花の多い、イギリスの文化が残る海沿いの町だった。
ロッキー山脈から移動してきた耳に潮騒がとても爽やかで、寝不足の目には日差しが痛いほど強い。
その町の中で、私は一人きりだった。通う学校もなく、ホストファミリーもなく、あるのは安宿のベッドだけ。何とかできるのは自分だけ。お望み通りの『英語が通じなければ生きていけない』状況だ。
 あっという間に追い詰められた私は、長距離移動の疲れもそのままにレストランや土産物屋を探し始めた。港の観光地として栄える町にはその手の店が多くあり、私は目を血走らせながらそれらの店を見て回った。ここぞと思う店に入って、聞いた。
――勉強のためにお店の手伝いをさせてくれませんか?
 突然現れたアジア人の女性を雇ってくれるほどには甘くない。泣き出しそうになるのをこらえながら、重い足取りで歩いた。
オシャレした女の子たちがアイスを食べ歩く中、寝不足の顔で虚ろに歩くアジア人が今の自分なのだと、勝手に悲しくなった。

2日目だっただろうか、あるレストランのガラスに『Waiter / Waitress wanted』の張り紙を見つけた。タイ料理のレストランだった。
 ――英語の勉強が必要なんです。ここで手伝いをさせてください。お給料はいりません。
 いきなり必死に頼み込む私を、目を丸くして聞いていた女性スタッフが「ちょっと待ってて」と言って奥に入っていった。
お店は昼休みらしく隣のテーブルではスタッフ達が黙々と食事している。スタッフは全員タイ人とカナダ人のようだった。
彼らが食べるココナッツカレーやレモングラスが香ばしく漂っている。スプーンとフォークだけで上手に食事する彼らを見ながら、器用だなとぼんやり思ったことを覚えている。
しばらくして、40代半ばほどの背の高いタイ人シェフが私を隅のテーブルに呼んだ。
このチャンスを逃すとどうなるかわからない。涙さえ流しそうな心境で、私は前のめりになって必死に居場所を求めた。
接客の仕事もしたことあるし、お給料はいりませんからどうか手伝いをさせてください。
一通りまくしたてた私は、静かに話しを聞くシェフの表情に何のサインも発見できず『やはり無理か』とうつむいた。
シェフが、紙とペンをとって私に渡した。
 ――ここに名前と、働きたいという内容を書きなさい。私から店のオーナーに頼んでみるから。
真っ白な紙を前にして、期待と不安と興奮で手が震えた。
その手紙は、異世界と自分をつなぐ唯一の望みだ。書く途中で何度もスペルを間違える私に彼は辞書を差出し、書き上げるまで根気強く付き合ってくれた。
その間、他のタイ人スタッフが彼に反対するような尖った声をあげていたが、彼はタイ語でそれを制した様子だった。
私は、繰り返し練習したフレーズを祈る気持ちで書きつけた。

このタイ人シェフはマイクという英語名で呼ばれていた。複雑な発音の本名は残念ながら記憶できていない。
マイクとのこの出会いのおかげで、私はビクトリアという見知らぬ町でささやかな居場所を与えられ、英語を勉強する機会に恵まれることになる。
従業員の一人が私をルームメイトとして置いてくれることになり、英語がまだあやしい私には、ウェイトレスではなく来店した客をテーブルまで通すという簡単な役割が与えられた。(その店は行列ができるほどの人気店だった)
やがて皆と気心が知れるようになると、スタッフや客たちが私に単語や例文を教えてくれた。
中には「これを言ったヤツは引っ叩いてやれよ」と忠告付きのスラングを教えてくれる人もいた。

私は、このレストランで約4か月を過ごした。店の中でも外でも、様々な出会いや小さな事件があった。
一緒に過ごした期間は短くとも、マイクと私はきっとお互いに忘れることはない友人だと思っている。
ビクトリアで過ごした日々の全てが、私の“会話の基礎”を支えている以上、私はマイクを含める彼ら全員を忘れることはない。
今はもう音信不通になってしまったマイクは、噂によると再び自分の店を開くためにどこかへ移住したらしい。もう会うこともないのかもしれない。


当時、パブで一緒に飲んでいるときにマイクが私に話してくれた。
 かつてはマイク自身がバンクーバーでレストランを経営していたこと、そして失敗したこと。借金を抱えてビクトリアに来たとき、マイクには友人も知人もいなかった。だけどある人物の助けのおかげで道がひらけ、現在に至るという。
  ――だからTomokoが助けを求めて店に来たときは、私が助ける番だったんだ。
マイクはビールをゆっくりと飲みながら私に、順番なんだよ、と言った。
 
次の誰かに渡すために、私はマイクから”助けのバトン”を受け取ったと思っている。ひとつじゃなくて、いくつものバトン。
私は彼から、とても大切なことを学んだ。


ここに書いた私の経験は、決して人に勧めることはできない。あまりに危険をはらんでいるし、越えるべき問題も多すぎる。
あの時わたしを駆り立てたのは、若さゆえの短気であり、無鉄砲であり、焦りだったと今はわかる。あの時レスブリッジの学校にしっかりと腰を据えて勉強していたら、もしかしてもっと効率的に上達したかもしれない。
ただ必死に求めたことに応えてくれた人がいたこと、その有難さと幸運を思うと今でも私は心にシャキッとした芯が通る。
苦しい局面でも乗り越える勇気が湧く。
差し伸べられた手が与えてくれた力に、感動する。

小さなハコから

私は、社会人になってから留学という道を選んだ。
社会人になっていたからこその選択だったと、今では思う。それなりの、覚悟があった。
会社の先輩たちが冷ややかだったのを覚えている。『どうせ行っても何も変わらないよ』と思っているのが言外に濃厚に漂っていた。
私は22歳の社会人初心者で、お金もなく、自信もなく、語学もなかった。だけど、だからこそ行かなきゃいけないと思っていた。母国語以外の言語を身につけることで、自分の世界を広げられると信じていた。

高校卒業後18歳で東京の専門学校で映画を勉強した。卒業後、入社したテレビ番組制作会社で「あなた英語はできる?」と聞かれた。海外の旅番組の企画への誘いだった。
――できません。
嘘が通じるはずもない。そう答えるしかなかった。その仕事は他の人にまわっていった。
その後、モニターに映る私ではない誰かが作った海外の映像を見るたびに、語学力がないということの意味を知らさせた。
まるで自分は小さなハコの中にいるみたいだと、強烈に感じた。
わたし、このハコの外には手が届かないんだ。ああ、世界はこんなに広いのに。

 
これからの人生のために私は私に投資する。そう決心したのは2000年の年末だった。時間もお金もかかるけど、私に必要なものを手に入れるための決断だった。
約1年後に留学できるように計画をたて、会社を辞めた。失業保険を貯金にまわし、それからさらに学費を貯めるために実家に戻ってアルバイトをした。NHKのラジオ英会話を聞き、海外ドラマで使えそうなセリフを拾ってはメモをした。仕事から離れ、友人と離れ、孤独だったけど必ず戻るんだからと前を向き続けた。

2002年の5月。80万ぽっちの資金を握りしめて私はカナダに渡った。初めての国際線。一緒にいたのは泣きたくなるほど重たいスーツケース。うまく運べずにバンクーバー空港で柱に激突。それを見ていた空港のおじさんが無遠慮に大笑いし、そのあまりのあけすけな笑い声に腹を立てるのも忘れ、緊張がほぐれた。

それからもう、10年以上も経った。留学中は台風のような日々を過ごし、毎日が喜びと不安、幸福と孤独でいっぱいだった。
一言で「タノシカッタデス」なんて言えない。うまくいかないことだらけで決して楽ではなかったから。
語学学校を飛び出して独学の道を選んだために、プラスになったこともマイナスになったこともある。だけどいま自分で胸を張って言えるのは、私の投資は大成功を収めたということだ。
あの経験がなければ、今の私はない。語学がなければ、私の世界は今の三分の一以下だったろうと思う。
帰国後の私はいくつかの職種を経験し、現在は本来のフィールドである映画・テレビに落ち着いている。あの時の経験や、身につけた語学に何度も助けられながら執筆や番組ディレクションをさせてもらっている。

語学がなければいけないなんてことはない。海外経験がなければ世界が狭いのかと聞かれればそうではない。それは決して違う。人はそれぞれの方法で自分の世界を手に入れるものだから。
私は、海外に飛び込むという楽ではないその経験を乗り越えて成長していく覚悟を持っている人の背中を、応援したいと思う。
それが留学であれワーキングホリデーであれ、あなたが出ようとしているその旅の答えは、いつかずっと先に必ず見えてくるよと伝えたい。
ネットでもなくテレビの画面でもなく。その足で自分の世界を広げる人の勇気を私は心から応援する。

世界は広大で、知ったつもりになるにはまだ早いし、未知数の自分の能力に見切りをつけるのもまだ早いから。

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