ワーキングホリデー

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学校の外で学んだこと

私は英会話の基礎を、学校以外の場所で学んだ。
文法などは学校で学んだところが大きいが、基本的かつ重要な単語(haveやgetなど)が日常会話でどう使われるのかを体験して学んだのは、あるタイ料理のレストランだった。

カナダで最初に過ごした地はアルバータ州のレスブリッジという小さな町。ステイ先は、遠い親戚の叔父さんと叔母さん。
それまで全く知らなかったが、第二次世界大戦前に移民した親戚がいるという。そしてその会ったこともないこの夫妻が、私のホームステイを快く引き受けてくれた。
英語に不慣れな私が異国での生活をスタートする時、彼らの日本語と心遣いには大いに救われた。

通った学校は地元のカレッジ(日本で言う短期大学)に付属している語学学校で、アジア、コロンビア、スウェーデン、アフリカなどから生徒が集まっていた。熱心な先生が多い、素晴らしい学校だった。
語学学校での勉強は刺激的で、中学の頃から学校で繰り返し勉強していた文法がここにきてようやく理解できる喜びがあった。
私は恐ろしいほどに英文法を知らずに留学していた。「shouldの後の動詞は原形でいいの?」と聞いて友人を仰天させたことがある。
中学で勉強した文法なんて、使う機会がなければ22歳で真っ白けなのだ。
自分の将来がかかっている留学だから必死だった。少しずつ単語、例文、文法を覚えた。
ライティングの宿題はいつもクラスで一番長いエッセイを提出した。それなのに……
  ――話せない。聞き取れない。
3か月たってもちょっとした会話すらできない。ノートに書きつけて記憶した単語が会話として使えない。
多くの初心者が通る関門に、私は当然足止めされた。そこを通過するための学校であり、留学だ。それなのに私は泣きたいほどに焦っていた。
ダメだダメだ、このままじゃダメなんだよ。
たかだか3か月で何を言うかと、今なら鼻で笑い飛ばす。
だけど1年間しか滞在できないビザが私の頭上でカチコチと時を刻み続け、お金も制限されている極貧の留学だった。悠長に構えている余裕は全くない。
日本語で話す学校の友人達に苛立ちを感じ始め、あれだけ助けられていたはずの叔父夫婦の日本語までもが私の行く手を阻んでいるような気がした。
 ――なんとかしなくちゃダメだ
精神的に追い詰められた私は、結局夏休みを機にその学校をやめてしまった。
自分をさらに追い詰めるために、強制的に英語漬けになること。英語で生きていかざるを得ない環境にいくこと。
 
 心配そうな叔父夫妻に見送られ、私は長距離バスとフェリーを乗り継いでバンクーバー島のビクトリアという町へ移動した。
知り合いはいないし、土地に関する知識もない。
偶然見かけたビクトリアの『花が咲き乱れた穏やかな港町』というイメージ写真で「なんとなく優しい人がたくさんいそう」という、根拠ゼロの恐ろしく幼い願望だけを胸に、スーツケースを引きずりながら2日間かけて移動した。
 辿りついてみればビクトリアという町は確かに花の多い、イギリスの文化が残る海沿いの町だった。
ロッキー山脈から移動してきた耳に潮騒がとても爽やかで、寝不足の目には日差しが痛いほど強い。
その町の中で、私は一人きりだった。通う学校もなく、ホストファミリーもなく、あるのは安宿のベッドだけ。何とかできるのは自分だけ。お望み通りの『英語が通じなければ生きていけない』状況だ。
 あっという間に追い詰められた私は、長距離移動の疲れもそのままにレストランや土産物屋を探し始めた。港の観光地として栄える町にはその手の店が多くあり、私は目を血走らせながらそれらの店を見て回った。ここぞと思う店に入って、聞いた。
――勉強のためにお店の手伝いをさせてくれませんか?
 突然現れたアジア人の女性を雇ってくれるほどには甘くない。泣き出しそうになるのをこらえながら、重い足取りで歩いた。
オシャレした女の子たちがアイスを食べ歩く中、寝不足の顔で虚ろに歩くアジア人が今の自分なのだと、勝手に悲しくなった。

2日目だっただろうか、あるレストランのガラスに『Waiter / Waitress wanted』の張り紙を見つけた。タイ料理のレストランだった。
 ――英語の勉強が必要なんです。ここで手伝いをさせてください。お給料はいりません。
 いきなり必死に頼み込む私を、目を丸くして聞いていた女性スタッフが「ちょっと待ってて」と言って奥に入っていった。
お店は昼休みらしく隣のテーブルではスタッフ達が黙々と食事している。スタッフは全員タイ人とカナダ人のようだった。
彼らが食べるココナッツカレーやレモングラスが香ばしく漂っている。スプーンとフォークだけで上手に食事する彼らを見ながら、器用だなとぼんやり思ったことを覚えている。
しばらくして、40代半ばほどの背の高いタイ人シェフが私を隅のテーブルに呼んだ。
このチャンスを逃すとどうなるかわからない。涙さえ流しそうな心境で、私は前のめりになって必死に居場所を求めた。
接客の仕事もしたことあるし、お給料はいりませんからどうか手伝いをさせてください。
一通りまくしたてた私は、静かに話しを聞くシェフの表情に何のサインも発見できず『やはり無理か』とうつむいた。
シェフが、紙とペンをとって私に渡した。
 ――ここに名前と、働きたいという内容を書きなさい。私から店のオーナーに頼んでみるから。
真っ白な紙を前にして、期待と不安と興奮で手が震えた。
その手紙は、異世界と自分をつなぐ唯一の望みだ。書く途中で何度もスペルを間違える私に彼は辞書を差出し、書き上げるまで根気強く付き合ってくれた。
その間、他のタイ人スタッフが彼に反対するような尖った声をあげていたが、彼はタイ語でそれを制した様子だった。
私は、繰り返し練習したフレーズを祈る気持ちで書きつけた。

このタイ人シェフはマイクという英語名で呼ばれていた。複雑な発音の本名は残念ながら記憶できていない。
マイクとのこの出会いのおかげで、私はビクトリアという見知らぬ町でささやかな居場所を与えられ、英語を勉強する機会に恵まれることになる。
従業員の一人が私をルームメイトとして置いてくれることになり、英語がまだあやしい私には、ウェイトレスではなく来店した客をテーブルまで通すという簡単な役割が与えられた。(その店は行列ができるほどの人気店だった)
やがて皆と気心が知れるようになると、スタッフや客たちが私に単語や例文を教えてくれた。
中には「これを言ったヤツは引っ叩いてやれよ」と忠告付きのスラングを教えてくれる人もいた。

私は、このレストランで約4か月を過ごした。店の中でも外でも、様々な出会いや小さな事件があった。
一緒に過ごした期間は短くとも、マイクと私はきっとお互いに忘れることはない友人だと思っている。
ビクトリアで過ごした日々の全てが、私の“会話の基礎”を支えている以上、私はマイクを含める彼ら全員を忘れることはない。
今はもう音信不通になってしまったマイクは、噂によると再び自分の店を開くためにどこかへ移住したらしい。もう会うこともないのかもしれない。


当時、パブで一緒に飲んでいるときにマイクが私に話してくれた。
 かつてはマイク自身がバンクーバーでレストランを経営していたこと、そして失敗したこと。借金を抱えてビクトリアに来たとき、マイクには友人も知人もいなかった。だけどある人物の助けのおかげで道がひらけ、現在に至るという。
  ――だからTomokoが助けを求めて店に来たときは、私が助ける番だったんだ。
マイクはビールをゆっくりと飲みながら私に、順番なんだよ、と言った。
 
次の誰かに渡すために、私はマイクから”助けのバトン”を受け取ったと思っている。ひとつじゃなくて、いくつものバトン。
私は彼から、とても大切なことを学んだ。


ここに書いた私の経験は、決して人に勧めることはできない。あまりに危険をはらんでいるし、越えるべき問題も多すぎる。
あの時わたしを駆り立てたのは、若さゆえの短気であり、無鉄砲であり、焦りだったと今はわかる。あの時レスブリッジの学校にしっかりと腰を据えて勉強していたら、もしかしてもっと効率的に上達したかもしれない。
ただ必死に求めたことに応えてくれた人がいたこと、その有難さと幸運を思うと今でも私は心にシャキッとした芯が通る。
苦しい局面でも乗り越える勇気が湧く。
差し伸べられた手が与えてくれた力に、感動する。

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